BUMP OF CHICKEN 2006TOUR “run rabbit run”

広島より帰宅致しました。
早朝営業のミスドでカフェオレおかわりで居続け、ゆか園に行ってみればあまりの小さいに逆にエキサイトし、中心部で洋服なんぞを物色しながら、昼にはお好み焼きを喰い、会場近くの海を散歩してたらカモメに餌やってるおじさんに会い、その餌を分けてもらったら大群で向かってこられ本気でビビリ、会場に行けば長蛇の列が出来ており、今か今かと開場を待てば雪が降ってきて(雪国の皆さんの日頃のご苦労を微弱ながら察せました)、今日だけは巻の呪いじゃなくてスノスマへの前祝いだと己を鼓舞しながら歯の根を震わせておりました。
そんな広島。

去年の夏からずっと、曲とかインタビューとかから拾い上げて少しづつ作ってきた私の中の「バンプ」への感触。バラバラに集まってた欠片の、最後のピースを見つけることが出来ました。会えてよかったです、ラ(イ)フ・ma(r)ker。ラフ・メイカーであって、ライフ・マーカー。
豆ぶつける気合でいましたが、歳の数だけ豆喰わされた感じの初遭遇。だどもしっかり消化してやったぜ!その充実感と単純にライブ楽しかったのと、だけど消化して見つけた最後のピースで出来上がった答えの内容が少し哀しくて、それが切ない。今の気持ちはそんな具合です。


以下は厳密なライブ感想でもバンプ語りでもなく、私の感触まとめです。

私はずっとバンプの、藤の「変わらなさ」を怖がってました。表現方法は変われど、その核にあるたった1個のものは「ガラスのブルース」から何も変わってない。その核を表する言葉をずっと探してたけど、「生の選択」かなぁと今回やっと見つけた心地です「生かされている」から「生きる」への転換。その選択の瞬間。誰かが選ぶ瞬間を、労るように促すように祝福するように歌ってる。

実状はどうであれ大人に片足突っ込んでること自覚してるし、大人になるって決めたから。そんな私は彼らを置いていくことになるんだろうなって事に気付きました。
もう、選んじゃってるから。選ぶまでは唄に1番近い場所でうずくまってることを許されるけど、立つことを決めたら歩くしかない。選んだ瞬間に、もうその唄と前と同じ距離ではいられない。今まで一番近くにいたと思ってた唄達は、また新しく選択を待ってる誰かに寄り添ってる。変わったのは自分。彼らはただずっと変わらず同じ場所から歌ってる。

バンプの曲に、そして藤個人に対して訳のわからない哀しさをずっと抱いてたんですが、それは「置いていく」可能性を感じてたからだと漸く判りました。

過去仮定は好きじゃないけど、10代の頃に会いたかったな。10代の頃だったら無邪気に接する事ができたろうに。「置いていくこと」にも無自覚なまま、無邪気に好きって云えただろうな。
大人と子供として対せないんだったら、いっそ最初から大人と大人として会えてたらまた違ってたんだろうケド。中途半端な時期に出会えたからの痛みなんだろうなと思います。喜びだけでつながれたら幸福だったろうけど、痛みでつながれることもあるから。だったらそれでいいや、というのが今の結論。

去年の8月末に藤の目が「見えた」瞬間があって、そっから約半年か。当初は人称を「もっちゃん」とか茶化さないとやってらんなかったり、ラジオがあったり、鹿野さんの通達騒ぎがあったり。感触抱いてから生で体感して確認するまでのタイムラグが大きかったから、その間あれやこれやで感情が膨らみすぎてまた見えなくなってたけど。今ならきっと直視できる。

やー、やっとスッキリした。バンプにまつわる言語化はこれで終了!来週の大阪2dayは頭空っぽにして楽しんできます。セットリストも2dayで変わるみたいですしねーvあの曲この曲聴かせろい。