哀しみの行方、とか

嬉し泣きとか哀しくて泣くとか発露が異なったって感情の発散という構造が変わらないんだから、泣くって行為自体は同質なんだなと昨夜初めて気付きました。ポジティブな感情から「泣き叫ぶ」と言うにふさわしい状態が生まれたってのがわが身に起きたことながら不思議でなんねぇ。自分の中の嬉し泣きのバリエーションてのは、笑いが止まんねぇとこにポロポロ涙でてくる状態ひとつだったんですが、笑う余地が一切ねぇのね。新しい涙を得ましたよ。
哀しみすらいつか報われるんだということもまた昨日得た感触で確信です。いつ、どんな形でか分かんなくても、そうあれることを目指し続けることでしか哀しみに克つことってできないのかも。そうしてやっと過去になる。
過去になったからこそ、この1年半が愛しくてしょうがないです。何度もいいますけど本当にこの1年半に出会った音楽が素晴らしかったからこそ、研ぎ澄まされていて喪失した何かの気配が生々しく痛くあって、生まれる光に魅入りながらもずっと辛かった。やーっとその部分もひっくるめて慈しめます。消えやしないと思うんですけどね。これからのアナログフィッシュの音から、そのある種のいびつさが消えることはないとも思うんですが、きっと辛くはない。
この一年半という時間と、その中で生まれた音楽に出会えたことを幸福に思います。いい時代に生まれたなー。RCもミッシェルもブランキーもリアルタイムじゃ知りえなかったけど、私は私のロックを目撃してるよ。目撃する、覚悟もできた。ゴットが去って鬼が行って、スパルタとの別れを控えどこかくすんでた夏が彩づいた。