忘れてたから思い出

 20年前の我輩
しれっと帰省中。1年後の卒業=住居移動が現実味を帯びてきたので、身辺整理を始めてます。荷物の中で面積を占めるのが、意外に小学校の文集やらの類。猫を殺す好奇心で開いてみれば、作風ってか芸風が何かしら今の自分に通じるものがあって爆失笑。こう、ストレート投げりゃいいのに魔球試しちゃうみたいな。事実を素直に書き連ねりゃいいのに、会話から始めてみたりとか構成を狙ってるこざかしさが愉快。ニクタラシイ。
もひとつ発掘した爆弾は幼稚園の時の…なんていうんだろ、親と先生側がやりとりする報告記録みたいなノート。もう2,3年経つと表情に自我が出てくっけど、↑くらいの時期だと写真見ても“自分”って感覚が薄かった。薄かったけど、確かにこのガキが育てば私みたいなのになるんだなという物的証拠がまざまざと。突発的行動を平気で起こす反面、意にそぐわないコトに対しては幼児なりのとはいえ理屈で押し通す姿。なんら変わってねぇ…(顔をおおって。
そんなガキンチョは山(幼稚園の裏が城跡利用した公園で散歩コースだった)の斜面を駆け上がる遊びが大層お気に入りでしたが、それは遊びではなく富士山に登るための訓練だと先生に言ってたそうな。初耳ーーーー!!!

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記憶に関して考えたことメモ 
忘れてなおかつ思い出す(情報としての刺激 再現)過程をへての“思い出”?
記憶にない=情報としてない、情報を与えられても関連性として検索できない=思い出せない ものは情報として与えられても実感がないために“思い出”にはならない?