「武史すごい!」

ロキオンvol.313でっす。…・・・そこで、そこで武史さんにちゃっかり擦り付けるのいやらしすぎっぜ(笑い死に。サク単独に引き続いてチル全員vs山崎さん。

抱いてる確信を、本当に確信として持ってていいんだっていうのが嬉しくて笑い疲れ。私の桜井和寿に対する怨恨原因第2位として、GC7でシークレットゲストした時に呼人さんに告げた「ここは楽しいから、いつでも呼んで」って言葉がありました。わざわざ“ここ”って限定すんのならどこなら楽しくないんだよって話ですが、そんなの一個だけしかなくて。なんでここ=GCが楽しいっていったら、呼人さんとの付き合いの長さっていうのとこのイベントの空気として、MrChildrenのフロントでボーカルである桜井和寿っていう顔じゃなく、ただの歌うたい・ただのギター(元)少年としてのすっぴんの顔でいられるから。MrChildrenっていうバンドの場自体を越えて、MrChildrenっていう存在がもつ枷っていうのの大きさを知らされた心地でした。
MrChildrenとして音を鳴らす、音を伝える際にはMrChildenという機能に期待される役割を全うするっていう要素があって。音源に関してはでもわりと、そういう責任よりも自身の必要性と時代の融合という理想的な形でバランスが取れてる印象ですが。ただライブが、ライブにおいては責任感のが上回ってる印象だったんです。私のミスチルライブ初体験はシフクノオトツアーでして、それはあのツアーの要素的に強かったものが大きい(一回ツアーなくなった後の久しぶりのツアーだからete)とは思いつつも、納得いかないものがあって。その後のGC7での遭遇であんまりにもリラックスして歌にむかう姿に、枷のなくなった状態での桜井和寿ミスチルで会いたいとムカっ腹すらたったものでした。そしたら…会えたんですよ。その年05年夏のapbankFesにそしてIVUツアーと。責任が消え去るわけではないけれど、そんなものよりものびやかに音と歌と戯れる桜井和寿がいた。ミスチルミスチルとして会えた。

そして昨年06年のバンクフェスで会えた「彩り」や「ストレンジカメレオン」に、桜井和寿個人の枷だけでなくミスチル全体としてあの4人としても枷が外れた印象を受けました。ハイブリットイノセンスはその枠とっぱらったモードの一環だと、実際には行けなかったけどW-JPOPでちょこっとだけ流れた映像に静かな確信は得ていました。ただわりとそうさせたのは『IVU』というアルバムの要素が強かったんじゃないかという不安感?、ていうのが時間とともに生まれてたようです。バンクフェスはバンクフェスって言う空間のマジっクがあるしね。誤解を恐れずにいえばバンクフェスに来てる人達のを、ミスチルファンより信頼してる印象がある。
あれっきりじゃないって、「IVU」ツアーだからじゃなくてbankfesだからじゃなくたって、もうどこだろうが会えるってより確信が欲しかった。わざわざ言うほど大きなものではないけど、でもずっと隅っこでイガイガしてたんだと、今回のインタビュー読んで自覚。付属DVDみて<どこだろうがミスチルとして音を鳴らした瞬間からきっと会える>っていう安堵がどこからきたのか自分でも無自覚だったんですが、ここのせいでしたわ。やっと不安の角取れた感じです。あーあ、相当自分ねちっこい。もうこれで心おきなく待ってろ北海道!!!です。

あとカウンカーカルチャーとしてのロックの下りんとこ。『優しい歌』のCPで『花』収録すんのに、副題?の「memento mori」とっちゃったのを「今は死をわざわざ思う必要がもうない」って言ったというのを聞いたことがありますが、その答えなんだろうな。死のリアリティの方が生のリアリティよりも勝ってる中では、生のリアリティを打ち鳴らす方がカウンターパワーになる。『もっと』は9.11の頃にすでに出来てたってカドカワの全曲解説で話してたけど、あの当時よりも今の方がより時代のど真ん中だっていうのも含めて、今更ながらあの男の時代に対する嗅覚にゾワっとくる。死-生の2対立というよりも私は虚-有、憂-有、有は在でもいいや、今存在する対立項の多くは死-生ていう2対立とまではまだ明確にいききってない手前の段階だと思います。あーでもリアリティとはまた別の“生々しさ”っていう評は、そこまで踏み込んでるかどうかなのかな。結果としては必ず行き着く先ではあるから。表現の段階としてどこまで踏み込んでるかで、そう考えるとバンプに対する鹿野さんの評をもっかい見直す必要あっかも。

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山崎さんに対して期待というエゴの自覚度が読めなくてずっとジャッジ保留でしたけど、同号の後藤&喜多VSでの「普段はぶつぶつ文句を言う係」っていう評とあわせてハッキリした。やっぱ完璧に判っててしかけてんなー、くっそー。チルvsの最後2Pら辺の誘導とかがいやらしすぎてイラっとくる。すげぇよ。
私が山崎さんを認識した切っ掛けは、VOL.295 SCENEでのレミ『太陽の下』記事でした。<「ギリギリでロック側」にいる「バンド感」がないがしろにされちまっていると感じた>という当時の指摘について、前号の『茜空』記事に1年後の今やっと真意が納得できました。ただ論として納得はできても、そんなおもしろくないとこで終んねぇよPOPエッグは!! という反論は変わらず抱いてます。そこで留まらないと思いつつも、批評家として釘ささずにはおれんエゴってよりもサガってのの違いなんだろうな。ただ「茜空」記事ですっげー嬉しかったのが<(HORIZNん時に山崎さんが)「なんか見失いかけてないですか?」って言って、神宮司くんはムッとする、みたいな>って下り。指摘として必要なものであるという理性判断や、むしろそこでイラっとさせた化学反応を期待してんだろうという大人の意図すらもう越えて、素直にそのイラっとを出してくれっとホッとする。巻とか啓介さんが出来ない・しない分、余計に。

それにしてもロックなひとの最たるもんが山崎さんだった、とか言っちゃう兵庫さんが愛しい。