都会の花火は低かった

神宮外苑花火大会*1が方角的にちょろっと見えないかなーと期待して、うちの屋上にコーラーとかシュウマイとか持ち込んで待ってましたが、花火本体は見えずも空の色が変わる様が不思議でみいってました。食べるもの食べてから六本木通りまでてくてく出てってみれば、高樹町の交差点のトコにある駐車場が遠いなりになかなかの穴場スポットで、20分くらい夏の花模様を味わえました。京都時代には山の反対側で打ち上げてるのが峰を越えて咲く様を見る機会が多かったのですが、ビルの狭間にこぼれる光もよいものでしたわ。
打ち上げ花火を見るとレミの「太陽の下」が聴きたくなります。誰かと生きることの美しさと儚さがつまってて、一瞬前の景色の余韻にしっくりくる。アルバム「風のクロマ」から「sakura」も「Starting Over」も、どうにもメロディ・サウンドに対して詞が上滑ってる印象がぬけずにいます。“音”に対して正しいつりあいを言葉がとれてなくて、かみあって溶けあって拮抗して生まれていた響きがまったく感じられないのですよ。
時間も記憶も自己すらも追い越す様な、何度も連れてってもらったあの風は、藤巻亮太からこぼれた言の種が、レミオロメンの音と溶けて偶然と確信ともうあとほんのちょっとの何かで生まれるもので、こんなお仕着せの言葉じゃないはずだという反論。自然という狭義の環境から、広義の環境の変化へのトライをそれなりに見つめてきましたが、ここにきての着地点がどうにもむずがゆい。「風のクロマ」以降くずぶってる、こんなもんじゃねぇだろ、こんなもんじゃねぇはずだという勝手な期待はおなかの底にしずめたまま。さてさてさて、どうなりますか。
こんな風に楽しんだり他のこと考えたりしてるのも全部逃避で、この2日暮らしのふっとした隙間には必ずって程スパルタのことが浮かんで消えてくんないから、なんとか持ち直そうという自己保存方法なのです。ただここでスパルタのこと考えとかないといけない、今しとかないといけないというのも自己保存命令に基づきすぎててまだ思考と感情が一致してない。
脱退っていう哀しい別れは笑い話にするしかない風にたて続けに3件くらったけど、大事な時間育てた大好きなバンドが解散するってのは初めてなんですわ。出会ってからのどんな時期思ってみても素晴らしい時間の記憶しかなくて、だったら最後までそうあれるように、タイムリミットまであがきます。