アウスへーベンしようぜ


友達がイノシシ肉貰えることになって、人生初のボタン鍋

2007年の勉強会はマルクスから。去年後期に人文の講義もぐって「ドイツイデオロギー」読みましたが、確かに的を得た批判だけともイキイキとこきおろす加減が気にくわなくて、いまひとつ好きになれなかったんです。BUT今回から読み出した「ヘーゲル法哲学批判序説」はいい!なんで当時ドイツ批判が必要だったのかの切実さがリアリティもって伝わってくるし、近代国家の止揚としての革命にはうっかり同意しそうな夢がある。うっかりね。後発的近代としてのドイツの立場は、やっぱ日本の近代考える上でものすごく重要だなと反省。論争の類は亀井でイヤになってたけど、ドイツ歴史家論争もいい加減読みましょう。
以下今思いついたのでメモ
「批判の前提」だってマルクスが提示した「宗教」(理想の外化が現実の止揚を阻む?)が日本ではどう扱うべきなのかって軸で共同幻想論見直すのはどうなるのか。キリスト教天皇制の違いは?
克服すべきリアリティと、過程は→やっぱヘーゲル
ルソー「己自身の主人たらしめる市民」の発想と神との契約の関係は?判断の根拠の神ってのは矛盾しない?神との契約の前に娘・妻・母たる役割を全うしたジュリの、けれどもまた確かに存在した個人の感情の肯定の意味は?(公・私の矛盾はいつも共同幻想/規律・規範 から?)(矛盾を描いただけでなく、肯定したところが新しいの?)エミールではどう扱う?