なにごともBIGに?

 特盛カップアイスにトライ
大学卒業にあたって幼馴染が高知に戻るんで、最後に京都を味わおうと色々計画したわりに結局いつもの銭湯へ。船岡温泉*1てトコで脱衣所の欄間が有名みたいすが、日替わりで楽しめる檜と岩の露天が目当てで春と秋によく行ってます。道中チャリなのが夏は暑く冬は寒くて厳しいから、気候のいい時期だけの趣味。
随分と日中の気候がやわらかくなってるんで早い目にお風呂入り、その足で焼肉屋にGO。高校の頃から念願だった、サシでの焼肉食べ放題をこの機会に実現。私もそいつも末っ子同士で、面倒みなれてない組み合わせじゃ肉を奪い合う悲惨な事態に陥るのではというのが当時の推測でしたが、焼けたぞーとお互いがお互いの皿へ肉を投げあう結果に。焼きイカの分配でもめたガキ共(マジな思い出)が、違う場所で年を重ねて多少の気遣いも覚えてきたということでしょうか。
こいつを始め数名いる幼馴染陣に対して、奇妙なくずぐったさを抱きます。そのくすぐったさって当時抱いてた世界の狭さを思い出すことからくるんだと思う。例えばこの焼肉食べ放題も、実は私は忘れてたんだけど、要は“大人”になったら一緒にやりたい事リストだったんではないかと。その定義の漠然さが幼すぎてほほえましい。今は何だって出来るしドコへだって行けるし、ホントは当時だってそれは同じだったんだけど、ほんのちょっと日常って制限で見えなくなるだけなんだなとこういう折に思い知らされる。
その一方で狭い世界で生きてた距離感のままで接せられることに安堵もする。振り返るとどっちかの家でだらだら過ごすか、あるいは野外で無駄にアクティブにはしゃぐかの2手段で関係を培ってきたように思います。高知の実家から京都の部屋へと場所は変わっても、互いのパーソナルスペースで違和感なく居場所めっけて何時間でも過ごせる楽さは随分と貴重だと知ってきました。広くなった世界で担った役割とは関係ない空間てのがシェルター的効果があんだろうなと思う。でも逃げ込むだけじゃなくて、広くなった世界で当然だと思うようなった事柄をもっかい新鮮に捉え直せたりする。あえてこの狭さを大事にしながら、これからも付き合ってきたいなと思うものです。
この数年自分を始め周囲も変化が激しい時期で、それに加え先だっての州ちゃんの件みたいな出会いも別れも目撃して、殊春は内省モード。